ビッグサンズの挑戦
【第4回】“普及率ゼロ”にめげず

「ここは10年目ごとに変身しています」とビッグサンズの村田三郎社長はいう。

まだ創業20年目である。変身は創業10年目に1度、体験した。いま2度目の変身中である。

そもそも村田社長は、ある電機メーカーで特機事業の責任者だった。

「悲壮感はなかった」という。当時、普及率ゼロのビデオ機器の開発から営業までを手がけていたから、ビデオ好きの仲間11人が集まっての独立だった。

ビデオはまだ草創期だった。高価でなじみのない装置を持ち回っても売れない。実際に撮影し、お見せし、そのテープ(ソフト)とともに装置(ハード)も買っ ていただこうとした。結婚式を撮影したことは先に記した。高校野球地区予選も撮影した。どちらも生涯の最良の場面である。それが映像になるのだから、かな り歓迎されたが、えっと驚くこともおきた。

新郎新婦の肌が、真っ青に写るのである。撮影した社員も真っ青になった。色温度のいたずらだった。背景の金びょうぶと人間の肌では色温度が違うからであ る。当時の技術では、テレビ局のスタジオでは解決できても、普通の撮影では克服できなかった。

「こんなものやめよう」とは、ならなかった。ビデオ好きの集団である。社長自身は技術畑でもあった。モノづくりの本性がうずうずしてきた。なんとかしたい。

このとき、ビデオカラーコレクターとビデオエンハンサーが生まれた。色彩調整機と画質向上装置である。評判をよび、電機メーカーへのOEM(相手先ブランドによる生産)供給も実現した。

湿式ビデオクリーナーも考案した。ヘッド機能の劣化を防ぐテープである。これもビデオテープメーカーへ10年たった今でもOEM供給されている。

業界初の小電力・防水タイプのコードレス電話、電話の簡易交換機テレホンセレクター、ファクス付属装置であるファクスアダプター。この商品は、科学技術庁長官賞を受賞した。

自社ブランド「オービカル」とは、AUDIO(音)、VISUAL(映像)、CULTURE(文化)の頭文字の構成である。音と映像による文化の創造。音 と映像で人間の心を耕したいという願いがこめられた。創業5年目の昭和58年(1983)に生まれた。

しかし、ヒット商品には必ず大手が乗り出してくる。普及すると利幅も薄くなる。

「表彰状はたまっても金が残らない状態」(村田社長)になった。

新しい事業を始めなくてはならない。

パソコンのネットワークによる美術品の無店舗販売事業−画面のチラツキを無くした特殊素子使用の立体映像事業−LEDを応用した簡単入力の電光表示システム「電子ディスプレー」−の3分野に乗り出した。

(村上順一郎)

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【第5回】“名案”も時代に恵まれず

創業いらい10年前後という時期は、ビッグサンズ体質変化の節目になった。

それまで、技術革新のアイデアを連発し、大メーカーにOEM(相手先ブランドによる生産)供給を実現した。表彰状を何枚も獲得した。ただし「表彰状をもらっても金が残らない」会社じゃいけない、と村田社長は言いつづけた。

その期待を担ったのが、

「パソコンネットワークによる美術品販売」

「チラツキのない立体映像・3D」

「電子ディスプレー」(看板の電子化)

の3分野である。

これで脱皮を期したのだが、1つはうまくいったが、2つは逆にうまくいかなかった。

もちろん、ほかにも多くの事業を試みている。なにしろ"アイデア連発"企業なのだ。すべてを語りつくすのは無理である。3つに焦点を絞る。

「パソコンによる美術品販売」は、うまくいかなかった部類である。

フランスの新聞社の保有するリトグラフを、すべてビデオに入れる。その端末を百貨店などに置き、ユーザーの操作によって呼び出し、画面上で見てもらって、注文を受ける。

売り手には、美術品の保管・維持の費用がかからず、宣伝費や販売コストも低くなる。広い範囲の顧客に呼びかけられる。お客にも手間をとらせない。

「いいじゃないか」と乗り出した大手商社とのジョイントで、新会社を設立した。

結果として、それほど売れなかった。商社もビッグサンズもしびれを切らし、新会社の解散に踏み切った。そのあと、なんとバブルがやってきた。美術品ブームがきたのである。

売れ残り商品を抱えていたビッグサンズにも、注文があいついだ。

「もう少し遅く始めておれば」とだれでも思う。村田社長は残念がりはしなかった。

社会の動きと、新規事業の狙いとの乖離(かいり)。ビジネスの世界ではよく起きることである。売れ残りを買ってくださる方がいて、軽いやけどですんだ幸運に感謝しなければならない。

うしろを振り返るな、というのも村田社長の心がまえである。

ところで、なぜ、美術品の販売に目をつけたのか。

これは村田社長の"ささやかな体験"による。ビッグサンズ本社の近くに関西有数の画廊街がある。散歩がてらのぞくうちに、美術品の売買には素人にはわかりにくい面があることに気づいた。

「わかりやすくすればいいのに」と思ったのが、きっかけである。

このシステムは、いま、中古自動車オークション業界で活用されている。社会のシステムを、コンピュータによって進化させたい、という考え方の基本は正しかった、といってもいい。

つぎは、「立体映像・3D」である。

(村上順一郎)

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【第6回】旅路で見た“光る文字”

ヒューッ、と鋭い矢がとんでくる。「あっ」と顔をそむける。

熱帯魚が泳いでくる。手でつかめそうになる。皆、立体映像のいたずらである。

むかし、映画館に立体映画が登場したことがある。赤と青の眼鏡をかけてみた。人気はあったが、観賞が面倒なのと、上質の映像が少なかったせいか長続きしなかった。

ただ、立体映像をみたいという願望はずっと続いている。博覧会や遊園地などで出合うことがある。

ビッグサンズも「PLZT素子」を使用したチラツキのない立体映像に取り組んだ。

創業9年目の1987年に、そのシステムの提供を始めた。ホテルや旅館などにハードを配置する。ソフトは、映画会社と提携して制作する会社も設立した。主 にエンターテイメントのソフトを制作した。立体映像だから医療技術の研究にも応用できる。その需要も掘り起こそうとした。

ともかく画面が鮮明である、と話題を集めた。技術力が評価された。だが、ひっぱりだこの人気というほどにはならなかった。

それは長時間の観賞が無理だったからである。見つづけると目が疲れる。15分ぐらいが限度かな、といわれた。これでは娯楽用にも医学用にも短すぎる。

3つめの「電子ディスプレー」はどうなったか。

大成功をおさめている。ビッグサンズのビッグな柱のひとつとなった。

電子ディスプレーは光る表示板である。「街は動いている」と前々回ご紹介した。街の表情だけではない。行政情報、交通情報、病院や銀行のお知らせ情報などを、わかりやすく、生き生きと変えた。

阪神大震災の被災地では、ビッグサンズの提供したたくさんの電子ディスプレーが、給水情報や医療班の動きなど災害対策の広報に役立った。生命を守る情報発信板の役割を果たしたのである。

村田社長は、「電子ディスプレーが市民権を得た」と、表現する。

もともと、電子ディスプレーは、村田社長の海外での見聞から生まれた。

10年ほど前である。アメリカではコンシューマー・エレクトロニクス・ショー(CES)を見学した際、シカゴの空港で、行き先表示のよく目立つバスがきた。

目立ったのは、光る文字で表示されているからだった。静止文字だったが、行き先を変えるとき、ぱっと一瞬できりかわる。日本のくるくると巻き取るタイプを みている目にはなんとも新鮮だった。光る物質は、発光ダイオード(LED)であると分かった。

(村上順一郎)
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