●●平成10年7月3日(金) 日本工業新聞[連載第1回]●● |
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どこを向いても、苦悩や悲観の色が濃い中で、きちんと前進をつづけている会社がある。どういうわけで、そうなるのか。なにか秘密があるのか。電子ディスプレイ事業を主軸として“情報産業で最も成功したベンチャー企業”といわれるビッグサンズ(本社・大阪市北区西天満4−11−23)の現状と将来展望を、この連載で探っていきたい。 大阪市西天満の満電ビルにある、“電子ディスプレイ&情報システムメーカー”「ビッグサンズ」のドアを開けると、大きな声で、「いらっしゃいませ」と迎えられた。「こんにちは」とか「どうぞ奥へ」とか、つぎつぎに声がかかる。その声にしたがって進むと、自然に応接室へたどりつく。 サービス業の店先ではない。メーカーのオフィスである。受付係などはない。ワイシャツの腕をまくってデスクに向かって男子社員、パソコンのキーボードをたたいている女子社員が来客をみて立ち上がり、声をだしてあいさつするのである。 さわやか、である。もともと大阪のキタ、梅田から天満にかけての一帯は、この日本有数の産業都市でも最も活気のある一画ではある。だがビッグサンズの社内は、外に負けないほどの活力に満ちている。 壁にスローガンがある。企業のスローガンは、“努力”とか“目標達成”など重々しくなりがちだが、ここは、ひらがなやカタカナが多く、字面が明るい。 「ツキカエタ」という五文字が目に飛びこんできた。近づいて、それが五つのスローガンの頭文字だとわかった。 ツついている人、伸びている企業と積極的につき合う 二番目のキは“聞き上手”になり本音でつき合う カは感謝の気持ちで素直に“ありがとう” エは笑顔でニコニコ明るく生きる タは他人に喜んでもらう まず身近な人に一灯をともす 一読して気分がいい。押し付けがましさがない。それにしても、ビッグサンズは好調を維持する会社だ。78年(昭和53年)10月、資本金570万円、社員11人で創業した。20年間に黒字決算が18年、つまり「18勝2敗」の好成績をあげ、資本金5億1400万円で情報産業に成長した。だから、土煙をたててばく進むするようなスローガンがあるのでは、と想像したのだが。 「小さな会社です。こんなにうまくいくわけがない」と、村田社長は謙虚である。「とくにこういう時期ですから」と。だからこそ、躍進の秘訣を聞きたいのである。 −−きっと秘密は、優れた技術開発力、なみなみならぬ努力、なんでしょうね。 すると、思いがけない答えであった。 「もし、なにかがあるとすれば、わたしどもの“社是”のおかげですよ」 スローガンはもともと社是から生まれている。だから社是もやわらかいトーンだ。 「喜んでもらう喜び 己もよろこびたい」後段の「己は…」は、「わたしも喜びたい」と言い替えてもいいだろう。これがなぜ好調の源なのか、くわしく聞かせてほしくなった。 (村上順一郎) |
●●平成10年7月17日(金) 日本工業新聞[連載第2回]●● | |
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「当社の業績は『社是』のおかげです」という村田社長の言葉の意味はすぐに理解できない。「優秀な技術のおかげです」なら納得できるのだが。 ビッグサンズの社是−−。 「喜んでもらう喜び 己もよろこびたい」これが、どう社業に役立ったのか。 村田社長も社員研修会などで若い社員に社是の意味を聞く。「ふわっとした語源ですから、いいなあ、と思ってくれるんですが意味の方は…」と気になる。答えは「いい商品をつくる」とか「安くつくる」「普及率ゼロの商品をつくることです」などと返ってくる。 最後の「普及率ゼロの…」は村田社長の口ぐせでもある。他企業のまねをしない。自分たちにしかできないことをする。だから乗り出すのは普及率ゼロの分野である。ベンチャーの心意気を示す大切なことなのだが、これが社是の解釈にならない、という。 では、なになのか。 いい商品をつくる、などといったモノの差別化ではない。「いつでもだれにでもできることを実行しよう」ということだ。 だれにでもできること、とは。 「いつも笑顔で元気のある態度、というのもそのひとつです」。 朝は、おはようございます。 お客さまには、いらっしゃいませ。これはだれにでも、いますぐできる。 それを村田社長は実行してきた。そのことで小さな会社がここまで伸びてこられた、という願いが、社是に結晶した。 この社是の源になる言葉は親しい人々との座談の中で聞いた。ある高僧がふと口にした「無財の七施」(むざいのしちせ)というお釈迦様の言葉である。胸にこつんと響くものがあった。金や権力がなくてもできる施しである。七つがあげられたが、村田社長は、例えばつぎの二つは実行できる、と思う。 顔施(がんせ)。いつも優しい眼をしている。笑っている。 言施(げんせ)。いつもありがとう、という。いずれも、実に人間的なことである。 創業のころ、結婚式のビデオ撮影を始めたことがある。おどろいたことに、金びょうぶの前では新郎新婦の顔が真っ青に写った。色温度の影響をうけたのだった。当時の技術では避けられなかった。 それを自然の肌色にするにはどうすればいいか。けんめいに研究し、器材を開発した。ここからカラーを補正するビデオカラーコレクターが生まれ、大メーカーにOEM供給することになった。ピンボケや手ぶれを修正するビデオエンハンサーもこのとき開発した。 問題がおきてお得意さまにかけつけるとき、村田社長が心がけ、社員にも徹底したのは、「人間第一」のこころがまえだった。「どの器具が故障したのですか」と言わず。「ご迷惑をおかけしたのはどなたでしょうか」と尋ねた。お得意さまは機械でなく人間である。 すべて社是の心である。社是がある限り、ビッグサンズは成長する。だから、「社是のおかげです」も村田社長も口癖である。 (村上順一郎) |
●●平成10年7月31日(金) 日本工業新聞[連載第3回]●● | |
街が動いている、と感じるときがある。 見上げる看板の「当店自慢!土用うなぎ」という文字がふっと「昼うな重定食1500円」に変わったりするときである。 商店街の看板は、街のアクセサリーだ。美しい看板はじっとしていてもきれいだ。だが動くと生き生きしてくる。この発光ダイオード(LED)を備えた電子ディスプレー看板は、動くのである。光を放ち、文字やイラストを動かし、人々に語りかける。 街が動けば、楽しさは増す。電子ディスプレーの表示は至るところにある。銀行ロビーで「有利な定期預金」を、病院で「正しい薬の飲み方」を知らせてくれる。役所では「早めに投票を」と呼びかけ、工事現場では「足元にご注意」と教えてくれる。 「今度のミュージカルは楽しめた」と喜ぶ人もいる。海外ミュージカルの日本公演で舞台の両そでに電子ディスプレー装置が付いていて、日本語の字幕スーパーが出た。外国語の歌やセリフにとまどうことなく、タイミングよく笑ったり拍手したりできた。 パトカーにも電子ディスプレーがついている。拡声器代わりに、光る文字で、ドライバーに運転の不注意を気づかせる。 街が、電子ディスプレーによってやさしい表情を持ってきた、とも言える。 電子ディスプレーのシェアナンバーワンを誇るメーカー「ビッグサンズ」は、先に紹介したように「喜んでもらう喜び 己(おのれ)もよろこびたい」を社是とする。 いくらかでも喜んでもらえるようになったかなと村田三郎社長は、ひとりうなずくことがある。 1987年、村田社長ら11人の脱サラ・グループが資本金570万円で設立した。いま資本金5億1399万円。3期連続の2けた増益である。 20年間に阪神大震災などで2年だけ赤字となったが他の年は順調。「20試合で18勝2敗」と、村田社長は独特の表現でいう。 この間、だれも乗り出さない、いわば普及率ゼロの分野へ社業を展開した。ベンチャーとして当然である。アイデアのひねりだし、お得意さんとのつながり。ベンチャーとしてならではの苦労を味わうなかで、1つだけ、握りしめてきたものがある。 「楽しみ」である。 これは自分たちが望んだ事業だ。いやいや選んだのじゃない。モノを作りだす楽しみ。それを自分たちで求めてきた。社名の「ビッグサンズ」も、欠点だらけのやんちゃな子供たち、という意味である。その楽しみだけは手放すまい。 だから社内に渋い顔はない。忙しさに緊張する顔はあっても、底に明るさがある。 それにしても、なぜだろう。巷は不況に苦しむ声が満ちているというのに。 ビッグサンズの、「これまで」と「これから」を知れば、わかるかもしれない。 (村上順一郎) |
●●平成10年8月14日(金) 日本工業新聞[連載第4回]●● | |
「ここは10年目ごとに変身しています」とビッグサンズの村田三郎社長はいう。 まだ創業20年目である。変身は創業10年目に1度、体験した。いま2度目の変身中である。 そもそも村田社長は、ある電機メーカーで特機事業の責任者だった。 「悲壮感はなかった」という。当時、普及率ゼロのビデオ機器の開発から営業までを手がけていたから、ビデオ好きの仲間11人が集まっての独立だった。 ビデオはまだ草創期だった。高価でなじみのない装置を持ち回っても売れない。実際に撮影し、お見せし、そのテープ(ソフト)とともに装置(ハード)も買っていただこうとした。結婚式を撮影したことは先に記した。高校野球地区予選も撮影した。どちらも生涯の最良の場面である。それが映像になるのだから、かなり歓迎されたが、えっと驚くこともおきた。 新郎新婦の肌が、真っ青に写るのである。撮影した社員も真っ青になった。色温度のいたずらだった。背景の金びょうぶと人間の肌では色温度が違うからである。当時の技術では、テレビ局のスタジオでは解決できても、普通の撮影では克服できなかった。 「こんなものやめよう」とは、ならなかった。ビデオ好きの集団である。社長自身は技術畑でもあった。モノづくりの本性がうずうずしてきた。なんとかしたい。 このとき、ビデオカラーコレクターとビデオエンハンサーが生まれた。色彩調整機と画質向上装置である。評判をよび、電機メーカーへのOEM(相手先ブランドによる生産)供給も実現した。 湿式ビデオクリーナーも考案した。ヘッド機能の劣化を防ぐテープである。これもビデオテープメーカーへ10年たった今でもOEM供給されている。 業界初の小電力・防水タイプのコードレス電話、電話の簡易交換機テレホンセレクター、ファクス付属装置であるファクスアダプター。この商品は、科学技術庁長官賞を受賞した。 自社ブランド「オービカル」とは、AUDIO(音)、VISUAL(映像)、CULTURE(文化)の頭文字の構成である。音と映像による文化の創造。音と映像で人間の心を耕したいという願いがこめられた。創業5年目の昭和58年(1983)に生まれた。 しかし、ヒット商品には必ず大手が乗り出してくる。普及すると利幅も薄くなる。 「表彰状はたまっても金が残らない状態」(村田社長)になった。 新しい事業を始めなくてはならない。 パソコンのネットワークによる美術品の無店舗販売事業−画面のチラツキを無くした特殊素子使用の立体映像事業−LEDを応用した簡単入力の電光表示システム「電子ディスプレー」−の3分野に乗り出した。 (村上順一郎) |
●●平成10年8月28日(金) 日本工業新聞[連載第5回]●● | |
創業いらい10年前後という時期は、ビッグサンズ体質変化の節目になった。 それまで、技術革新のアイデアを連発し、大メーカーにOEM(相手先ブランドによる生産)供給を実現した。表彰状を何枚も獲得した。ただし「表彰状をもらっても金が残らない」会社じゃいけない、と村田社長は言いつづけた。 その期待を担ったのが、 「パソコンネットワークによる美術品販売」 「チラツキのない立体映像・3D」 「電子ディスプレー」(看板の電子化) の3分野である。 これで脱皮を期したのだが、1つはうまくいったが、2つは逆にうまくいかなかった。 もちろん、ほかにも多くの事業を試みている。なにしろ"アイデア連発"企業なのだ。すべてを語りつくすのは無理である。3つに焦点を絞る。 「パソコンによる美術品販売」は、うまくいかなかった部類である。 フランスの新聞社の保有するリトグラフを、すべてビデオに入れる。その端末を百貨店などに置き、ユーザーの操作によって呼び出し、画面上で見てもらって、注文を受ける。 売り手には、美術品の保管・維持の費用がかからず、宣伝費や販売コストも低くなる。広い範囲の顧客に呼びかけられる。お客にも手間をとらせない。 「いいじゃないか」と乗り出した大手商社とのジョイントで、新会社を設立した。 結果として、それほど売れなかった。商社もビッグサンズもしびれを切らし、新会社の解散に踏み切った。そのあと、なんとバブルがやってきた。美術品ブームがきたのである。 売れ残り商品を抱えていたビッグサンズにも、注文があいついだ。 「もう少し遅く始めておれば」とだれでも思う。村田社長は残念がりはしなかった。 社会の動きと、新規事業の狙いとの乖離(かいり)。ビジネスの世界ではよく起きることである。売れ残りを買ってくださる方がいて、軽いやけどですんだ幸運に感謝しなければならない。 うしろを振り返るな、というのも村田社長の心がまえである。 ところで、なぜ、美術品の販売に目をつけたのか。 これは村田社長の"ささやかな体験"による。ビッグサンズ本社の近くに関西有数の画廊街がある。散歩がてらのぞくうちに、美術品の売買には素人にはわかりにくい面があることに気づいた。 「わかりやすくすればいいのに」と思ったのが、きっかけである。 このシステムは、いま、中古自動車オークション業界で活用されている。社会のシステムを、コンピュータによって進化させたい、という考え方の基本は正しかった、といってもいい。 つぎは、「立体映像・3D」である。 (村上順一郎) |
●●平成10年9月11日(金) 日本工業新聞[連載第6回]●● | |
ヒューッ、と鋭い矢がとんでくる。「あっ」と顔をそむける。 熱帯魚が泳いでくる。手でつかめそうになる。皆、立体映像のいたずらである。 むかし、映画館に立体映画が登場したことがある。赤と青の眼鏡をかけてみた。人気はあったが、観賞が面倒なのと、上質の映像が少なかったせいか長続きしなかった。 ただ、立体映像をみたいという願望はずっと続いている。博覧会や遊園地などで出合うことがある。 ビッグサンズも「PLZT素子」を使用したチラツキのない立体映像に取り組んだ。 創業9年目の1987年に、そのシステムの提供を始めた。ホテルや旅館などにハードを配置する。ソフトは、映画会社と提携して制作する会社も設立した。主にエンターテイメントのソフトを制作した。立体映像だから医療技術の研究にも応用できる。その需要も掘り起こそうとした。 ともかく画面が鮮明である、と話題を集めた。技術力が評価された。だが、ひっぱりだこの人気というほどにはならなかった。 それは長時間の観賞が無理だったからである。見つづけると目が疲れる。15分ぐらいが限度かな、といわれた。これでは娯楽用にも医学用にも短すぎる。 3つめの「電子ディスプレー」はどうなったか。 大成功をおさめている。ビッグサンズのビッグな柱のひとつとなった。 電子ディスプレーは光る表示板である。「街は動いている」と前々回ご紹介した。街の表情だけではない。行政情報、交通情報、病院や銀行のお知らせ情報などを、わかりやすく、生き生きと変えた。 阪神大震災の被災地では、ビッグサンズの提供したたくさんの電子ディスプレーが、給水情報や医療班の動きなど災害対策の広報に役立った。生命を守る情報発信板の役割を果たしたのである。 村田社長は、「電子ディスプレーが市民権を得た」と、表現する。 もともと、電子ディスプレーは、村田社長の海外での見聞から生まれた。 10年ほど前である。アメリカではコンシューマー・エレクトロニクス・ショー(CES)を見学した際、シカゴの空港で、行き先表示のよく目立つバスがきた。 目立ったのは、光る文字で表示されているからだった。静止文字だったが、行き先を変えるとき、ぱっと一瞬できりかわる。日本のくるくると巻き取るタイプをみている目にはなんとも新鮮だった。光る物質は、発光ダイオード(LED)であると分かった。 (村上順一郎) |
●●平成10年9月25日(金) 日本工業新聞[連載第7回]●● | |
20年前の10月、ビデオに夢をかける同志が集まってスタートした、大阪のベンチャービジネス「ビッグサンズ」は、創業10年ほどで、鉱脈を掘り当てた。 というと、偶然の幸運が舞い込んだようだが、そうではない。村田社長以下の日常の目配りと研鑚(けんさん)が実を結んだのである。ちなみにビッグサンズという社名は、やんちゃな子供たち、というような意味である。鉱脈とはLED(発光ダイオード)による電光表示システム「電子ディスプレー」である。それらのことはすでにご紹介した。いま、街角や商店街などで、文字や絵が動きながら人々に情報を伝えている看板や表示板である。 現在、その電子ディスプレーの売上額はビッグサンズ全体の売上の65%を占める。文字どおりの主柱になっている。 「実は」と村田社長は苦笑した。「あのころ会社の柱にしたかった事業は3本。美術品のコンピューター販売『リトグラフ・ネットワーク・システム』、立体映像『3D』とこれ。どちらかといえばこれは費用もかからず3番手でした。それが1番成長しました」 期待度の比較的低かった教え子が、最高に成長した、その意外さ嬉しさに苦笑したのである。「そうでしたね」と、次に会ったとき確認すると、村田社長は「そんなこと言いましたか。手掛けた事業にはみな最大限の期待をしてますよ」と言う。これだけ事業を広げると経営者としての発言は慎重になる。 当時のLEDは赤一色の静止文字で輝度も弱かった。発光体は国内の電機メーカーがすでに生産していたが、「光も弱い、見通しも明るくない」といわれていた。 ビッグサンズ集団は、いちど関心をもつと徹底的に集中する。そのうちに、「輝度の増大はデバイスメーカーに任せ、我々は入力を簡単にするのが先じゃないか」という考えが生まれた。当時のLED表示装置は専門家でも入力に手間どった。キャプテン・システムがヒントになった。NTTの文字図形キャラクター通信システムである。窓が開けた。手書き文字も画像も簡単に描ける。動く映像も可能である。 ビッグサンズが市場を制圧した。というより市場の開拓者そのものがビッグサンズだった。『手描き入力システム電光ライト・せんでん虫』など独自のシステムも開発した。文字や画像をICカードに入れ電話線で顧客に届ける。顧客の手書き画像も受信できる。 その間に、発光体のカラーも赤・ミドリ・オレンジの3色に増えた。最近では青の発色も使われ、フルカラーの実用化も目の前に来ている。単純な看板が、魅力的な新商品に生まれ変わった。 他のメーカーも追ってくる。激しい競争が需要のパイをさらにふくらませている。 ビッグサンズはさらに画期的な次世代ディスプレーシステムを開発中である。 (村上順一郎) |
●●平成10年10月9日(金) 日本工業新聞[連載第8回]●● | |
ビッグサンズはこの10月1日、満20年の誕生日を迎えた。 昭和53年(1978)、資本金570万円、同志11人で始めたベンチャー企業が、いま資本金5億1399万円、グループ企業3社社員数100人を超える規模となった。 だが、村田社長は自戒する。「無事これ名馬なりはベンチャーの気概を薄れさせる」と。その気配がみえるとすぐ、社員の気風にも社内の組織にも向上心と改革を求めてきた。これからもそうしよう、と感慨の去来する胸の内で思う。ビッグサンズの未来設計図はどうなるのか。それはのちに触れる。 今回は、電子ディスプレーにつぐ柱となっている『プリペイドカード』を紹介する。 病院の入院患者がテレビ等の借用料をカードで払うシステムだ。コインより清潔感があって患者と病院から歓迎され、市場は広がっている。これもビッグサンズが開拓した。 電子ディスプレーより新しく7年前、開発した。受像機わきのプリペイドカードタイマーにカードを入れると記録された時間だけ、テレビをみることができる。ビッグサンズの「Auvicul」(オービカル)ブランドの「カードタイマー」は、いまこの機器のスタンダードになっている。 カード自動販売機は院内に置かれ、千円札を入れるとカードが出る。電気洗濯機や冷蔵庫、電話も同じカードで利用できる仕組みも普及し始めている。 ビッグサンズは、7年間で累計14万台の機器を普及させ、カード売上は年間400万枚に上る。業界のシェア40%のナンバーワン企業である。病院経営の合理化や環境改善への要請が高まる中で、期待できる市場になっている。 もう1つ今年から本格的に取り組み始めたのは「まんがの図書館」である。まんが本数万冊をそろえた店に利用料を払って入ると、スナック類などの自動販売機があり自由にマンガを楽しめる。 入場料は30分200円。お客の平均滞留時間を1時間半から2時間、平均1.5時間として、料金は平均600円ていど。自動販売機の缶コーヒーなど1杯100円余りとして、700円余りで楽しめる。パチンコより安い。かなりの利用者が見込めるのではないか。 平成8年に、梅田店(大阪市北区太融寺)を設置、翌年、難波店(同市中央区難波)、心斎橋店(同区南船場)に開設。この春は三軒茶屋店(世田谷区三軒茶屋)で首都圏進出、8月には池袋東口店開設と順調に業績を伸ばし、いよいよフランチャイズの展開に入る。「心の癒(いや)し」市場への突破口作戦である。日々めまぐるしく変化する。"火宅の市場"の情報サービス業界にあるビッググループが自ら求める「心のいやし」の場を事業化した。東京池袋進出店では「フクロウ大明神」を祭り、おみくじ、そして"癒(いや)し袋"の遊びも始める予定。 これも『普及率ゼロ』の新分野である。 (村上順一郎) |
●●平成10年10月23日(金) 日本工業新聞[連載第9回]●● | |
いま、不況や貸し渋りの嵐が吹き荒れている。ビッグサンズはどう乗り越えてきて、どう生き抜こうとするのか。 ビッグサンズには創業以来10年ごとに節目があった。創業20年目だから、創業時を別にすれば乗り越えた節目は1回だが。 最初の10年、カネの苦労はなかったと村田社長は言う。え? その話はこうである。 もともと、大阪のビデオ・オーディオ電機メーカー出身の村田三郎が有志11人と独立した会社である。全員が出資者だった。前職の経営者も前途を祝して出資してくれた。それ以外に、資金の借り入れはしなかった。 借り入れで手持ちの担保を差し出したくても担保がない。連帯保証人を頼めば相身互いになって、リスクが大きくなる。 「脱サラからの出発だから金は借りられない」という前提だ。では、どうしたのか。 ちょうどリースクレジット業界の勃興期だった。創業時は、ビデオ・オーディオ機器の販売と結婚式ビデオ撮影である。機器を仕入れて、月初めに信用販売で売る。10日前後に代金が信販から入金される。社内の給与や経費精算は月末になる。その時間差で余裕が生まれる。何カ月か続くと、資金が蓄積されてゆく。 右肩上がりの好景気だったから、この手法が通じた。バブルが消え不況が訪れると、リースクレジットもタイトになってきた。 しかし、村田社長は不況を「ベンチャーの好機」と見た。独特の技術や製品が評価されるようになるからだ。ベンチャー育成の政策や、ベンチャーキャピタルの制度も整う。ビッグサンズがメーカー業へ転ずる機会でもある。自己資金で増資を行い、不足分をベンチャーキャピタルで借りることにした。これが10年目の節目になった。 ベンチャーキャピタルの申請には正面から取り組み、分厚い書類を提出した。ここをパスしない企画は、どこにも通じない。 見通しがつくと、事業会社を設立した。これだと失敗のショックが少ない。先に説明したリトグラフの不振はこれで軟着陸できた。 やがて増資を続ける時期に入った。店頭公開を目指したのである。500円株を1万1000円で購入してもらったりした。経常利益も健全な数字だった。そこへ阪神大震災。大阪南港の倉庫が陥没し、電子ディスプレーなどの破損、代理店の倒産で3億5000万円の被害を受けた。15年間の蓄積も消えたが特損で単年度処理した。 震災復興は社内ベンチャー方式で乗り越え、その後3年間は再び黒字企業となった。 以上、好不況を味方にした足取りである。「ラッキーな面もありますね」と感想を述べると、村田社長は「ツキを味方にしながら来ました」と素直に語った。経済情勢を味方につけるのも経営手腕である。これから、2回目の節目を乗り越えなければならない。 (村上順一郎) |
●●平成10年10月23日(金) 日本工業新聞[連載第9回]●● | |
いま、不況や貸し渋りの嵐が吹き荒れている。ビッグサンズはどう乗り越えてきて、どう生き抜こうとするのか。 ビッグサンズには創業以来10年ごとに節目があった。創業20年目だから、創業時を別にすれば乗り越えた節目は1回だが。 最初の10年、カネの苦労はなかったと村田社長は言う。え? その話はこうである。 もともと、大阪のビデオ・オーディオ電機メーカー出身の村田三郎が有志11人と独立した会社である。全員が出資者だった。前職の経営者も前途を祝して出資してくれた。それ以外に、資金の借り入れはしなかった。 借り入れで手持ちの担保を差し出したくても担保がない。連帯保証人を頼めば相身互いになって、リスクが大きくなる。 「脱サラからの出発だから金は借りられない」という前提だ。では、どうしたのか。 ちょうどリースクレジット業界の勃興期だった。創業時は、ビデオ・オーディオ機器の販売と結婚式ビデオ撮影である。機器を仕入れて、月初めに信用販売で売る。10日前後に代金が信販から入金される。社内の給与や経費精算は月末になる。その時間差で余裕が生まれる。何カ月か続くと、資金が蓄積されてゆく。 右肩上がりの好景気だったから、この手法が通じた。バブルが消え不況が訪れると、リースクレジットもタイトになってきた。 しかし、村田社長は不況を「ベンチャーの好機」と見た。独特の技術や製品が評価されるようになるからだ。ベンチャー育成の政策や、ベンチャーキャピタルの制度も整う。ビッグサンズがメーカー業へ転ずる機会でもある。自己資金で増資を行い、不足分をベンチャーキャピタルで借りることにした。これが10年目の節目になった。 ベンチャーキャピタルの申請には正面から取り組み、分厚い書類を提出した。ここをパスしない企画は、どこにも通じない。 見通しがつくと、事業会社を設立した。これだと失敗のショックが少ない。先に説明したリトグラフの不振はこれで軟着陸できた。 やがて増資を続ける時期に入った。店頭公開を目指したのである。500円株を1万1000円で購入してもらったりした。経常利益も健全な数字だった。そこへ阪神大震災。大阪南港の倉庫が陥没し、電子ディスプレーなどの破損、代理店の倒産で3億5000万円の被害を受けた。15年間の蓄積も消えたが特損で単年度処理した。 震災復興は社内ベンチャー方式で乗り越え、その後3年間は再び黒字企業となった。 以上、好不況を味方にした足取りである。「ラッキーな面もありますね」と感想を述べると、村田社長は「ツキを味方にしながら来ました」と素直に語った。経済情勢を味方につけるのも経営手腕である。これから、2回目の節目を乗り越えなければならない。 (村上順一郎) |
●●平成10年11月6日(金) 日本工業新聞[連載最終回]●● | |
「喜んでもらう喜び 己もよろこびたい」 これがビッグサンズの社是である。 人に喜んでもらうのが嬉しい。それをみて自分も喜びたい。いい語句だが、世知がらい競争社会では、痛々しすぎるほどの、やさしさである。現実の企業に、そういう心情がなじんでいけるのだろうか。 大阪・西天満の満電ビル内にある技術部門の部屋を訪ねた。数人の社員がパソコンに向かっている。壁に絵が数枚。手書きのようなコンピューターグラフィックのような。 「これは技術向上のためにそれぞれ自由に描いたものです」という。室内は温かい緊張感に包まれていた。 本店第1営業所の片山所長、第2営業所の島所長に聞く。片山所長は社歴が長い。島所長は若く第一線で活動している。それぞれ、資料を用意し説明が的確である。 質問を試みるうちに、「ここに入って、やりがいのある仕事だと思いました」と島所長がいう。なぜなら「扱うものが単なる品物ではない。喜びを伝えるものだとわかったからです」。その横で片山所長もうなずく。売れば売るほど喜びが広がるのならば、営業も明るい表情になる。 20年目の節目を迎え、ビッグサンズは、どこを目指すのか。「基本的には専門メーカーにこだわりたい」と村田社長。「情報サービスとかメンテナンスとかをひっくるめてお客さまに満足していただけることをしようと思う」。IBM流だと「ソリューションメーカー」になる。ハード・ソフト・メディアセンターを総合的に融合させた産業である。 遠くをみつめた話になった。手近に移す。いま全社で熱中しているのは、電子ディスプレーをおしゃれにすることだ。看板は角張ったデザインが多い。寿司屋ならトロのデザイン。犬猫病院なら動物の絵。産婦人科ならコウノトリ。見て楽しく、そしてそのお店のイメージが看板になる。デザイン(形状)と同時に文字や映像ももっとアニメ化・ボキャブラ化する。見て楽しく、しかも自己主張のできるものを作りたい。 今年度の下半期には登場させることで、準備が進んでいる。 ここで、遠くをみつめる話に戻る。 「情報産業としての夢ですが、アジアを情報ネットワークで結ぶ"アジアビジョン"をやりたい。いま情報に過密の差がありすぎる。だから国家間、地域間で誤解や悲劇が起きる。情報の過疎地をなくせば、楽しい21世紀になりますよ」 最近、シベリアやサハリンを視察して、それが確信に近いものになった。こんなに近い国が情報世界では遠い所にいる。それを近づけて、平等な幸せをもたらしたい。 そう語る村田社長を見ていると、なるほど「喜んでもらう喜び」が生きている。社是を生かしているのは、やさしさでもあるが、それに加えて、強靭な精神力かもしれない、と感じた (村上順一郎) |